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(その1)最高裁逆転判決後の永山則夫

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反省=共立運動
反省=共立運動による出版社の門前抗議


永山則夫は精神異常だったのか?

 控訴審で無期懲役に減刑された永山則夫裁判の判決が最高裁で破棄差し戻された一年五カ月後の1985年12月23日、永山被告の主任弁護人は東京高裁に永山則夫の精神鑑定を申請した。鑑定内容は、犯行時の被告人の精神状態と、生育環境と遺伝的負因がどのように被告人の精神的成熟度、道徳的判断力に、影響を及ぼしたかであった。
 これに対して永山則夫は、「精神医学のみによる鑑定は永山則夫が解明した科学思想を抹殺し永山を権力に売り渡すものであるから受諾できない」という主旨を述べて翌86年1月23日、主任弁護人を解任した。
 すると1月31日に、残る弁護人が精神鑑定申請補充書を提出し、「弁護人は被告人の意思に反する弁護活動について極めて慎重でなければならない」とした上で、(一)被告人は妄想を有している(二)被告人は思考障害を有している 等等、例を挙げて「永山則夫は精神異常である」と主張したのであった。
 その「補充書」で弁護団は「精神鑑定申請」を「苦渋に満ちた選択」としたうえで、「われわれ弁護人は被告人の利益を最大限追求する責を負っている」とし、「われわれの職責は,審理に必要な事実を提示することである」としている。然し仮に弁護団の主張を裏付ける鑑定結果が出ても、裁判のこの段階で裁判所がそれをそのまま受け入れる可能性は極めて低いだろう。しかもそういう申請をすれば永山本人に解任されることは分っていたはずだ。それでは「(精神鑑定の結果によって減刑をはかり)被告人の利益を最大限追求する」というよりも、以降の弁護を不可能にし、再審に携わる可能性もなくすることにならないのか。
 弁護団は、ここに至ってなぜ、永山則夫の全てを否定するような主張をしたのか?それまで12年間の、<永山裁判>とは何だったのか?


第一次控訴審までの永山裁判の経緯

02ハンスト 第一審の永山裁判は、当初二年の審理で死刑が求刑された時点で永山則夫が周囲の勧めにより第二次弁護団を選任、弁護団は意見陳述に四年、精神鑑定に二年をかけた。その過程で永山則夫は起訴されていない第五の事件(静岡事件)を法廷で告白し、この事件の経緯に疑問があり既に犯人が分っていて逮捕しなかった疑いがあると主張した。他方第二次弁護団は主任弁護人が突然辞任したことで信頼関係が崩れ、永山則夫は「死刑廃止の一点で弁護する」弁護人選任アピールを公表,それに応えて第三次弁護団が組織され、静岡事件の事実審理要求を軸に弁護を開始した。当時の西川(さいかわ)潔裁判長は被告弁護人との打合せで静岡事件を審理すると約束したが、突如交代した蓑原茂廣裁判長はこれを形式的に済ませて早期結審・判決を行おうとしたため、第三次弁護団が抗議の辞任。裁判長は東京弁護士会に国選弁護人推薦を要請し、弁護士会がこれに応じようとしたため支援団体の“連続射殺魔”永山則夫の反省=共立運動が東京弁護士会前で無期限ハンスト(左写真)を決行しこれを阻止した。すると法務省が動き、「必要的弁護事件でも弁護人なしで裁判進行を可能にする」法案(いわゆる「弁護人抜き法案」)を国会に上程すると公表、このため弁護士会は理事者に一人三千万円の「生命保険」をかけて三名の国選弁護人を選任し、裁判は一転して「荒れる法廷」となり、被告人の発言を国選弁護人が阻止するという異様な状態のなかで、結審、死刑判決を強行して終ったのだった。


第一次控訴審の内幕

  一審の「静岡事件糾明要求」以降、被告弁護側の裁判対応は、永山被告と反省=共立運動が一貫してリードしていた。運動は私選弁護団の辞任のあと弁護士会による国選弁護人の推薦をハンストによって思いとどまらせたが、その後の弁護士会は弁護団よりも反省=共立運動との話し合いを繰返し、局面打開に努力していた。法務省が動いた時点で弁護士会の努力は限界に達し、国選弁護人を推薦するに至ったが、裁判を強行するあまり「行政府である法務省の司法への介入」という異常事態を招いたことは、裁判所の「失態」でしかなかった。
 控訴審に向けて、永山則夫は控訴趣意書を作成し、憲法が保障する健康で文化的な最低限度の生存・生活、社会福祉、教育、勤労、などの権利を受けられなかった自分の生い立ちを、客観的に、全面的に展開した。数冊に及ぶその控訴趣意書を私が高裁刑事二部に運んだ。
 控訴審の船田三雄裁判長は復帰した弁護団に、最初の打ち合わせで「この裁判は静かに判決を下したい」と言い、静岡事件を争わないこと、被告は被害者遺族に著書の印税から慰謝料を送っているが受け取っていない遺族もいるので、働きかけを強めること、などを話している。裁判長は「支援は何人いるのか」とも問い、この打ち合わせ内容が弁護団を通じて支援の反省=共立運動にも伝わることを前提としていたはずだった。ところが弁護団はこの裁判所の対応を反省=共立運動には伝えず、独断で当時獄中結婚をしていたKさんを通じて永山則夫に「思想放棄・闘争放棄」を説得した。
私に伝わったのは,弁護団と密着していた獄中妻Kさんの「強硬な方針を採らないで頂戴」と言う涙声だけであった。そのとき私は、「弁護団に断わりなしに動くことはない。まだ何も決めていない」(『死者はまた闘う』108頁)と言っている。そして「一体どうなっているのか」と永山氏に尋ねたが、答えは「永山が処刑されれば、ミミが死ぬと言っています」という混乱したものだった。
 彼女は「生きることを考えてほしい」と説得したと出版物にはある。永山氏の「思想を残して死ぬ」という心構えと、裁判方針を転換するということは別問題である。しかしKさんは「死ぬ」と言って思想放棄・闘争放棄をせまり、それに永山氏は折れたのだ。

その2)に続く



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