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(その3)死刑制度、そして憲法~何が憲法を守ったか 憲法は何を守ったか~

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01国会議事堂
国会議事堂


(その2)から続く

III.戦後日本の歴史と憲法


 保守勢力は、どこかで憲法を変えて、軍隊を復活させ昔のような体制に戻したい、それを「自主憲法」と言うんでしょうけど、そういう目論見がずっとあった。国民の側はやはり、平和憲法、民主主義憲法を歓迎したと思います。例えば戦後再出発した死刑廃止運動は、「新憲法の精神は死刑廃止だ」という捉え方をしています。
 そうした保守勢力の思惑と国民の意識とが真っ向からぶつかったのが、60年安保でした。

 ご存知のように‘51年に締結された旧日米安保条約は、米軍は駐留するが日本防衛の義務はなく、日本国内の内乱には介入できるなど不平等な条約だった。これを保守勢力は、米国との共同防衛にして対等にしよう、そのためには憲法も変えなければならない、ということをめざしていた。1955年2月に総選挙があって、憲法改定を争点に行われたのですが、保守側の民主党と自由党が改定に必要な三分の二に辛うじて達せず、選挙後に保守合同で自由民主党を作って改憲を旗印にした。いわゆる55年体制で、革新側も社会党(右派、左派)が合同しました。そして’57年2月に岸内閣が発足し、自主憲法制定と自主外交の展開を政策の柱にして、安保条約改定の交渉に入ります。

 この岸内閣が先ずやったのが、‘57年10月の、警察官職務執行法改正案、警職法ですね。警官の職務質問や立ち入り検査に権限を強化するという弾圧立法で、これがまず社会一般の反感を招いた。「オイコラ警察の復活」だと言われ、雑誌なども「デートも出来ない警職法」と書いて反発しています。社会が戦前に逆行するという危機感が広がり、反対運動が盛り上って警職法は廃案になります。これが安保闘争に繋がっていくのですが、岸が改定の交渉を進める中で、安保改定阻止国民会議が出来ます。社会党が中心で、共産党はオブザーバー参加。系列の労働組合、学生組織は1959年6月に全国で職場大会、ストライキこれは350万人が参加します。大学でも24大学で授業放棄、ストを行っています。’59年11月には国会周辺に6万人が結集する。この時は全学連が国会に突入しています。

 1960年に入って、5月19日に衆議院で、安保条約の強行採決が行われます。この強行採決は、安保特別委で混乱の中で新安保条約を「採決」したあと、野党のいない本会議議場で警官隊に守られて与党だけで決議をするという無茶苦茶な採決で、これを見た市民が続々と闘争に参加し、安保闘争は未曾有の盛り上がりを迎えることになります。

 市民団体、婦人団体、文化人、学術団体などの声明が相次ぎ、6月4日には岸内閣退陣・国会解散を求める統一ストに560万人が参加。労働組合は勿論一般商店でもストライキが打たれた。そして組織を持たない市民13万人が国会前に結集します。
このとき、岸は安保の改定と共に改憲を目指し、安保条約が成立すると同時に米大統領のアイゼンハワーが来日する予定だったのですが、6月10日事前協議でやってきたハガチー大統領報道官がデモ隊に囲まれて身動きが取れなくなり、米軍ヘリコプターで命からがら逃げ出した。アイゼンハワーが来れなくなってしまった。ピークは6月15日、国会周辺のデモ隊は33万人、このとき樺美智子さんが犠牲になりました。岸は右翼暴力団に要請してデモ隊を襲撃させる。自衛隊の出動も要請したようですが、国家公安委員長が反対して出来なかった。衆議院で強行採決された安保条約は参議院で一ヵ月後に自然成立しましたが、混乱の責任を取って岸内閣は総辞職、改憲の目論見は崩れ去ったわけです。つまりこのとき国民は憲法を守ったんですね。以降保守派は改憲を表に出さないで対米従属と経済優先路線に転換していきます。日本国民が憲法の定める平和と民主主義を自分達でこのとき選んだ、そして改憲を阻止したのでした。

 もし岸内閣の改憲が実現していたら、その後起こったベトナム戦争で間違いなく自衛隊(軍隊)が派遣されていたと思います。戦争に巻き込まれるというのは、日本にどこかが攻めてくるというだけではなく、日本国民が海外に出て行って戦争に参加し、殺したり殺されたりする、その背後には家族がいる。経済の影響も大きい。そういうことを含むのです。

 10年後の70年安保は、高度経済成長路線に沿って「豊か」になった日本の現実に対する問い直しの運動だったと思います。主要な問題はベトナム反戦でしたが、このときに寺山修司が街頭アンケートをラジオでやったのをずっと後に知りました。通行人は殆んど普通のサラリーマンですが「あなたは今ベトナムで起こっていることに対して自分に責任があると思いますか」という質問に、大抵の人が「あると思う」と答えています。そういう状況だった。そして公害問題や様々な差別問題、つまり加害者意識の闘いだった。だから60年ほどの盛り上がりはなかったですが、それを担ったのは私たちのような60年安保を見て育った世代です。その後も運動が続いて死刑廃止運動は‘80年代に全国化した。しかし’80年代後半から、組合つぶしなど、様々な領域で巻き返しが始まります。それらが功を奏したかに見えたとき、2011年に原発事故が起こり、改めて戦後政治の全てが問い直されているのが今だと思います。

 今の運動のひとつの特徴は、市民が政治から生活までトータルな課題を抱えて地域で結集を始めているということだと思います。そういう意味では、やはり運動というものは、それなりに前へ進んでいるんじゃないか。60年安保は「負けた」とよく言われます。安保条約が通ったから負けたと。けれども民衆の運動は、「勝ったか負けたか」で決着をつけるものではない。結果的には負け続けても、そこで何が達成されたのか、何が不十分だったのか、それを捉えなおして引き継いでいくというのが運動だと思います。また無責任な評論家が、「今までの運動はだめだ、今起こっているのが素晴らしい運動です」という言い方を繰りかえすのですが、それでは何も後に残らない。今までの運動を受け止めて、引き継いでいく、また次に繋げていくということが大切なんじゃないか。私たちはそういう地点にいるんじゃないかと思います。

 日本の国民は、日本を支配していた軍国主義者の敗北によって、平和憲法を最初は与えられたけれども、それを自分達の闘いの中で守ってきました。今もやはり、この憲法を元に戻そうとする力と闘うことを通じて、ほんとうに自分達の憲法にしていくことが出来るのだと思います。


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