FC2ブログ

 死刑廃止の先達たち 

 0
01国会議事堂
国会議事堂


 この国の近代刑法における死刑廃止の歴史は、140年余になる。明治初期以降の、草創期の死刑廃止を担った人たちとその主張をふりかえってみよう。

ueki.jpg 日本の死刑廃止の「草分け」と言えるのは、啓蒙学者の津田真道(1829~1903)だろう。明治6年に創られた「明六社」(今でいう「学会」)のメンバーで、ほかには森有礼、福沢諭吉、西周らが名を連ねている。津田は会誌「明六雑誌」に「死刑論」を発表し、刑罰の目的は犯行者の改善であるという立場から、死刑は刑罰の目的に合致しない、「死刑ハ刑ニ非ズ」と主張した。
 
 津田より少し後に明六社にも参加した植木枝盛(1857~1892)は、土佐で立志社に加わり、自由民権運動に生涯を捧げた。「人民に殺害・残酷の精神を造成する死刑の弊害」を説き、1881年「東洋大日本国国憲案」を起草。その第45条には、
 「日本ノ人民ハ何等ノ罪アリトモ生命ヲ奪ハサルベシ」
とある。

明治期の立法活動の第一人者は花井卓蔵(1868~1931)だった。足尾鉱毒事件で弾圧された農民や「大逆事件」の幸徳秋水らの弁護を手がける「人権派弁護士」だった花井は、衆議院選挙に七回当選し、後に衆議院副議長を務め、貴族院議員にも任命された。議会におけるその弁論は「歴代政府の鬼門」と恐れられ、1902年第16回帝国議会にはわが国初めての普通選挙法案を提出もした。

 この同じ1902年(明治35年)以降、帝国議会で花井は三度死刑廃止法案の提出に関わっているが、1907年の第23帝国議会では、刑法改正法案として、死刑と無期刑廃止、長期20年を最高刑とする法案を提出している。死刑廃止とはただ殺さないだけではなく、罪を犯した者が、再び人間として生かされなければならないことを深く理解した、刑政改革の提案だった。この時を含めて日本における死刑廃止の提案、審議は現在までに五度、国会で行われているが、花井はそのうち明治期の四度すべてに関わったことになる。
hanai.jpg 花井はその後、陪審法案の審議で、保守反動の巨魁若槻礼次郎と延々12時間の大激論の末、陪審制度を成立させた。戦前の日本陪審制は1928年施行、法廷陪審(殺人、放火などの重罪)と請求陪審があったが、被告人は法廷陪審を拒否できた。陪審員は事実認定のみであり、裁判所は陪審員に評議やり直しを命じることが出来るという制限があるが、15年間484件のうち81件が無罪。無罪率は16.7%(殺人事件だけでは6.3%)であった(当時の通常の裁判の無罪率は1.2%から2%だった)。

  何人も見る権利あり今日の月

 花井の残した俳句である。天皇一族に対する攻撃を「企てた」だけで選択刑なしの死刑、という「大逆罪」の存在した天皇絶対主義時代の日本においても、死刑廃止は徹底した人民への愛と人権への確信を持って、明快に主張されていた。その確信と情熱において、私たちは明治の先達に決して遅れをとるものであってはならないだろう。


0 Comments

There are no comments yet.

Leave a reply